誰かと分かり合いたいこと2
こんばんは。前回の記事を見てもらえたかは正直なところ分かりませんが、自分の過去を書くにあたり難しい部分がありました。具体的なことを書くと文章の感じ方は読み手の数だけあるということです。自分を見つめ直すことと同じくらい齟齬の無い、誤解の無い文章を書くことは難しいです。
今回は八戸に戻ってから中学入学までの話です。
八戸に戻った後で
八戸に戻ったのは私が2歳になる少し前なのですが、正しいことを書くと三戸郡階上町の祖父母の家に家族で住んでいました。階上町は青森県最東端の町で岩手県に隣接しています。その町には2003年の11月あたりまでの約4年住んでいました。今でも祖父母宅には定期的に行っているのですが、最近は足が遠のいています。
話が横道に行ってしまいましたが、私は何も言わないまま3歳の誕生日を迎えました。おそらくこの頃から言葉を話すようになったのでしょう。しかし私を取り巻く環境は悪化の一途をたどっていくのです。というのもこの時点で私にはある疑いがかけられていたのです。
開けられたパンドラの箱
岩手県一関市にある南光病院。私がその場所を訪れたのは2003年の1月、5歳の時でした。私にはついにとある診断が下されました。
最近では一部で神経発達症という言い方をされることがあるそうですが、東北地方では未だに発達障害という言い方が根強いので今後も「発達障害」で統一します。
私はそれ以来転院をしながら定期的な療育をすることになるのです。改めてこの障害と向き合う時に自らの生い立ちを、骨の髄までを憎く思ったことは一度や二度ばかりではありませんでした。しかしこのままでは何も変わらないこともまた事実です。幸いなことに私は軽度の自閉症で済みました。そしてここから私の逆転劇が始まるのです。
ターニングポイント
私は人生の中で幾度となくターニングポイントが訪れてきましたが、今回の内容で印象に残ったことを2つ書きます。最初は小学校入学までの1年弱で起こった不思議なことです。私は診断を受けた当初境界知能スレスレだったそうです。このままでは養護学校に入学してしまう可能性がありました。しかし、その時不思議なことが起こりました。少しずつですが、知能が伸びていったのです。恐らく私が考えるには母が発語の乏しかった私のために始めた「こどもちゃれんじ」が功を奏したのでしょう。知能が健常者と同等に発達して勉強が出来るようになった私は小学校に入学するタイミングで特殊学級に入りました。現在でいう特別支援学級です。母は私が学校生活の中でトラブルを起こしてしまうのではないかということを危惧したのです。これがきっかけで八戸市に引っ越しました。
そして始まった学校生活。私が最初に出会った教諭は当時の特別支援教育の八戸市内の中で保護者から定評のある人でしたが、一方で伸びしろのある児童にはげんこつを惜しまない今でいう体育会系の精神論者でした。初めの1年はぶたれることがほぼ日常だった私でしたが、2年生になってからはあまりありませんでした。この年(2005年)の5月から通常学級での勉強が始まったことが大きかったのだと考えています。この頃から数字に強かったのでしょう。算数から始まり国語の授業を受けるようになりました。
障害のある児童を受け入れて健常児と一緒に勉強する通常学級を協力学級といいますが、私がそこで授業を受けられたのはその教諭や周囲の先生方の尽力があったと考えています。
算数と国語から始まった私の通常学級(協力学級)での勉強の日々はやがて理科、社会も交えていくようになりました。その一方でいわゆる実技教科、学級会やお楽しみ会のようなイベントを受ける機会はありませんでした。私が特殊学級に在籍していた故の苦しみで初めて経験した差別的なことでした。
対等を目指した闘い
そのようなことがあり、私が健常者と同じ教室で同じ授業を受け続けることを意識し始めたのは小学4年生の時でした。そこからより一層勉強に打ち込みながら1年生の9月から始めていた水泳にも精を出しました。そして何よりも好きになったのが歴史でした。学校の図書室にある歴史漫画を読んだこともありましたが、私は歴史の資料集からその世界にのめり込みました。
様々な物事にほぼ全力で向かっていく小学生だった私ですが、通常学級のクラスメイトからは評価してもらえたことはありませんでした。それどころか日ごとに孤立していく感じが否めなかったのです。それは誰もが差し掛かる「年頃」だったわけですが、その時の私は知る由はありませんでした。
それでも真摯に向き合った私にはもう一つのターニングポイントが待ち受けていました。
最初の人生の岐路
小学校最後の冬。私には2つの選択肢が用意されていました。一つは中学校より上の学校は通常学級に在籍すること。もう一つは中学校の特別支援学級に在籍して高校は養護学校に……。私は勉強することがすごく好きだったので迷わず前者を選びました。もし後者を選んでしまったら私はきっと低学歴で貧困に喘いでいたことでしょうし、後々このシリーズで書きますが思い描く未来は掴めなかったことでしょう。
この2つのターニングポイントを突破した私は本当の意味での対等を形式的に勝ち取ったのです。この「形式的」については次回の記事で書きます。
前回の記事はこちらからもご覧いただけます。
誰かと分かり合いたいこと1
こんばんは。こちらの記事をご覧いただき有り難うございます。今回からのシリーズ「誰かと分かり合いたいこと」は筆者のことに関する話となります。予めご了承ください。また、文章的に拙い部分もありますがそのあたりについてもご容赦願います。
本編に入る前に簡単な自己紹介をします。私は1997年9月19日生まれのA型です。時に素直すぎる性格のために皆さんにご迷惑をかけるかもしれません。
では何故このような内容を書くことにしたのか。この春から私は再度学生になったのですが、この程東北ブロックの学生会が結成されました。そこで自己紹介の話をLINEのノートに書くことになりました。しかし、要点がまとまらなかったことやどのような形であれ皆さんと繋がりたいと考えたところこのような記事を書くことにしました。これは決して自分史ではなく、自慢のために書く訳でもありません。後々書くことになりますが、私が孤立しないためにそして私が未来のパートナーと理想を分かち合い掴み取るために。変な解釈をしないでほしいのですが、思うところを言語にする私のことなのでいわゆる特性として考えていただきたいです。そして私を人間として、人物として嫌いにはならないでいただきたいです。
前置きが長くなりましたが、本編を始めます。
私の中の杜の都
東北地方最大の都市、仙台市。古くから杜の都と謳われるその街に私が住むことになったのは98年の1月。生後4ヶ月になる頃のことでした。父の仕事の都合でしたが、そこから約1年半仙台市で暮らすことになりました。仙台市の宮城野区に住んでいたのですが、正直なところ筆者があまりにも小さいため写真でしか見たことがありません。
今でこそ引退してしまいましたが、当時はE4系という車両が東北新幹線で運転されていたので父が撮ったであろうその写真を見ると当時をほんの少し感じられます。
仙台市での日々の中で母はいわゆるママ友を作り、私を当時住んでいたアパートの近所の子供たちと遊ばせていました。私は覚えていませんが、写真はあるので確かなのでしょう。
小さな異変
私が1歳半検診を受けた時の話になります。一言も言葉を発することがなかったのです。普段から言葉を発さない私のことで母は検診の折に相談をしたのだそうです。その時に「ことばの教室」というものを紹介されました。「ことばの教室」というのは宮城県仙台市にある言葉に課題のある児童のための教室で、現在では通級指導教室に切り替えられているのだそうです。私の場合は母が宮城野区主催の初期療育のようなものを紹介されたみたいです。しかし、私も母も記憶がないのです。行ったことがないだけではなく父の異動が決まり、八戸に行くことになったのです。1999年の7月のことでした。もし仮に父の異動が無く仙台市に住み続けていたら、私の人生はきっと違ったものになっていたでしょう。
瞳はフシアナ
おはようございます。先日床屋に行き、髪型を変えました。明くる日職場で何も言わずに過ごしたのですが、誰も気づきませんでした。目は見えても差異には気づかないのでしょうね。
今回は更にその明くる日、1月30日の稽古記録です。

自分のものに至れず
今回も前回に引き続き続き薄の稽古でした。丹頂鶴の描かれた半筒茶碗を使用しての絞り茶巾でした。前回出来ていた箇所は今回は出来ませんでした。茶道の奥深さと難しさを改めて意識する機会になりました。そのようなことが苦しくもあり、時に面白くもあります。
前回の記事はこちらからもご覧いただけます。
Variation
おはようございます。今回は1月23日の稽古記録です。



多彩な組み合わせ
今回の稽古は初釜から中1日だったこともあり特に稽古の内容は決まっていませんでしたが、私は更好棚を使った続き薄の稽古をしました。立ち鶴の描かれた半筒茶碗での続き薄だったので絞り茶巾でした。絞り茶巾はお点前の中で茶巾を畳むのですが、私は以前の稽古でスムーズに畳めませんでした。今回は少しだけスムーズに畳むことが出来ました。
稽古で使用したお茶碗は半筒なのでもっと細い筒茶碗での扱いをしてみたいと思いました。
続き薄と絞り茶巾に関する記事はこちらからもご覧いただけます。
出鼻挫かれる初釜2024
おはようございます。2024年の初詣は自宅に近い蕪嶋神社とJR本八戸駅の近くにある法霊山龗神社に行きました。いつものようにおみくじを引くのですが、興味深いことに両方とも末吉で恋愛の欄は「感情を控えよ」とありました。職場の方を好きになりつつあるので成就出来るように……。
さて、今回は1月21日の初釜の記事です。
果たせぬリベンジ
今回の初釜で私は薄茶点前をすることになりました。この話は前回の稽古(1月9日)が終わった後で先生から頂きました。思えば昨年の初釜は薄茶を点てる予定はあったもの、脚の痺れと悪天候で機会は失われました。あれから約1年の月日を経てその機会を頂いたのです。意外なことに姉弟子の一人は私が悔しがったことを覚えていたようです。
迎えた当日は生憎の悪天候で、結局私は渋々スーツで行くことになりました。




新年会
今回の初釜は最初に濃茶、薄茶を頂き、その後で懐石を頂く段取りになりました。
最初の濃茶は先生が点ててくださいました。年に1度の機会なので勉強になりました。次に薄茶を頂きました。最初に私が三碗点てました。今回は長板一つ置きでした。私が持っている本で事前に確認はしたものの、準備が足りませんでした。要所要所で間違えました。
一通り終わった後で昼食を頂きました。今回も先生が点心を振る舞ってくださいました。
今回の初釜は昨年叶わなかった薄茶点前が出来た一方で着物での参加が出来なかったので半分だけリベンジを果たした形になりました。次回こそは着物を着こなしてのお点前をして完全にリベンジを果たしたいです。




2023年の初釜の記事はこちらからもご覧いただけます。
八方塞がりの中で
おはようございます。本年も宜しくお願い致します。個人的な話になるのですが、2024年は私を含めて9の倍数の年齢になられる皆さんが八方塞がりというわけで正月からあまり調子が上がりませんでした。というのも毎年のように高島暦を書店で買うのですが、それによると今年はどうやら難しい1年になりそうです。
今回は1月9日の稽古記録です。
手桶の稽古
今回は初めて手桶の稽古をしました。手桶の水指は蓋が割蓋になっていて、扱いが少し面倒だと思いました。
手桶には様々な種類がありますが、私が稽古している社中では朱色の手桶でした。
冬場の稽古になると、塩笥という形のお茶碗が登場します。塩壺を小さくしたようなお茶碗で、胴がふっくらとしていて口が小さいのが特徴です。筒茶碗と同じようにお茶が冷めにくいということのようです。
最後になりますが、今回の震災で被災された皆様にお見舞い申し上げます。


2023年の稽古納めと振り返り
こんばんは。今回は12月26日の稽古記録になりますが、割と長文になります。予めご了承下さい。また、1年の振り返りということでオフショットや様々な内容に言及している箇所がありますのでそのあたりもご容赦下さい。

クリスマス会
本日の稽古は本来なら茶事のように食事を頂いて濃茶、薄茶のお点前をする予定でした。前回の稽古の後で姉弟子が来られないことになり、マンツーマンになりました。そのようなわけで今回は続き薄の稽古でした。マンツーマンの稽古は集中が出来る分どこか淋しく感じました。
今回の稽古の道具の取り合わせはクリスマスをテーマにしたものでした。床の間、水指、お茶碗までクリスマスに寄せたものでした。
ちなみに日中の稽古に参加された別の姉弟子方は上記の通りされたそうです。少し遅いですが、クリスマス会なのだそうです。
2023年の振り返り
この1年を振り返ってみると、例年以上に行動した年になるのではないでしょうか。正月明けから映画を観に盛岡市へ行くことやイタリアフェア、出身高校の同窓会での司会等目まぐるしく過ぎていきました。2月、3月は大過なく仕事の合間に稽古(2月はありませんでした)があるくらいでした。4月は地元の蕪嶋神社で蕪嶋祭りがあり、ボランティアとして参加しました。また、同じ日に裏千家青森支部の茶会がありました。5月には青森支部80周年ということで平川市の猿賀神社、隣接する猿賀公園でのお茶会に行きました。この時ほど長距離移動をした日は年内にはありませんでした。

6月も大きなイベントはありませんでした。7月は三嶋神社での例大祭、蕪嶋神社に隣接する海浜公園での浜祭りがありました。8月は4年ぶりに八戸三社大祭が通常開催となりました。その後で夏のイタリアフェア、年内2度目の盛岡市への映画鑑賞がありました。9月から10月にかけては八戸市総合茶会、出身高校の文化祭、八戸市の市民大会がありました。11月からは専門学校の同窓会や職場の忘年会、話は前後しますがJR鮫駅のクリスマスイルミネーションのボランティアもありました。

この1年で出来たこともあります。日々の稽古での成長はさることながら、着物の着付けを少しずつ出来るようになりました。10月の総合茶会から八戸市内での茶会は着物を着用して行くようにしています。手短に習得出来るものではありませんが、着付けの出来る姉弟子に師事していきたいです。茶会だけではなく同窓会や忘年会でも着られるようにしていきたいです。また、SNS上にはなってしまいますが多くの方と相互フォローする機会もありました。今はまだパソコンやスマートフォンの画面越しでしかお会い出来ないのですが、2024年からは地元ではないどこかに私は会いに行きたいです。八戸にも機会があるなら遊びに来て頂きたいくらいです。

今まで書いてこなかったことも今年に入ってから書く機会がありました。その一つが私の障害です。2003年の1月に今でいうASDの診断を受けてからこの年で20年の節目になりました。ブログを始めた当初(2022年4月)は言及しませんでしたが、割と書きにくい部分だと思いました。それでもいつか話す日は来ると私は思っていました。何も書かずに過ごすことは出来ます。しかし書かなければきっと苦労する場面があるのではないかと最近思うようになりました。
さて、来年の目標は4つのアレに取り組んでいきます。結婚、育業、通信制大学への進学、転職です。来年だけではなく30代にさしかかる数年間で取り組む目標にします。意識しすぎると空回りしそうなので、敢えて「アレ」で通します。
最後に一つだけかねてより思うことを書きます。9月に入ってからSNSでフォローを頂いた方がいます。その方とはパソコンやスマートフォンの画面越しでしかお会いしたことはありません。それでもSNSの発信やその方のブログの言葉一つ一つに確かなものが感じられるのです。そこで思いました。私はその方の力になりたいのです。その方に限らず向上心のある皆さんの力になって支えたいのです。無理はなさらないでほしいです。私にはASDという障害があっても書籍で得た知識や様々な見聞で誰かのサポートはしていきたいという気持ちはあります。
改めまして2024年も引き続きよろしくお願い致します。